廣田の歴史







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廣田花崖紹介(新聞店創設者)

明治末期から昭和初期にかけて、ここ上市ヶ尾において旺盛な執筆活動を行った廣田花崖の名は、 残念ながら現代ではあまり知られていないのが実情でありますが、公務中の事故による下半身不随のハンデ を負いながら、その広範囲な文筆活動は、農業関係から始まり、キリスト教関係、新聞小説、 少年少女向け科学小説、冒険小説、翻訳物、紀行文、俳句、短歌等に及んでいます。

『不運を克服する気骨の文士』

花崖は本名鐡五郎と言い、明治20年(1887)4月11日神奈川県都筑郡下谷本村(現藤が丘2丁目)に生まれ、中郡立農業学校(現平塚農業高校)に学び、明治39年(1906)頃から雑誌『農業雑報』に 投稿を始めました。下宿の傍らを流れる花水川の崖に咲いている桜の花を見て、花崖とペンネームを付けたと言われています。
農業学校卒業後、盛岡にあった専売局の煙草製造所に勤務しました。明治41年(1908)22歳の時、 陸軍技手となって宮城県の軍馬補充鍛冶屋沢支部に勤務していた際、事務所に帰るため乗ったトロッコが 脱線し投げ出されて事故にあい下半身不随となり、1年後下谷本の実家に戻って来ました。
大正8年(1919)33歳の時、上市ヶ尾(現廣田新聞店)に山房を建てて執筆活動を開始し、その傍ら横浜貿易新報社(現神奈川新聞)の通信部を開設して取材活動を始めました。

『田園を愛する』

①サイドカーで颯爽と取材に出かける花崖
この地域は近年まで「横浜のチベット」と呼ばれるくらい閑散とした農村でしたが、 その農村を花崖はこよなく愛しました。
花崖は、不自由な体で田園の中に分け入って、冷徹なまでの観察眼で農村の真実を見据えました。
ユーモアすら漂う軽妙な筆致の中で、行間には弱者に対する慈愛とも呼べる温かな人間愛をにじませ、 当時の農民たちの暮らしぶりを重層な構成力で30数編の短文随筆に仕立てたのが、 花崖の代表作『田園』です。大正14年(1925)に発表され、当時の小学校で文部省認定の副教科書として使われ、広く青少年に読まれました。今読んでも全然古さを感じさせないこの作品は、当時の田園と風俗を知る一級の資料でもあります。また、翌大正15年(1926)には地元の鉄小学校の校歌も作詞しています。

 

『廣田新聞店を創業』

②昭和初期の花崖山房

花崖は周囲から請われて、大正12年に自宅で新聞販売業を開業しますが、これが廣田新聞店の始まりです。
もちろん不自由な体ですから、 実務はすべて人任せにせざるを得なかったわけですが、気骨の人、花崖は、現在のたまプラーザから藤が丘にかけた「横浜のチベット」とさえ呼ばれ広く閑散としたこの地にも、当時としては貴重で重要な文化の伝導役を担った「新聞」を毎日届け続けたのでした。その哲学とも言える「新聞配達を天職と思え」の言葉は、花崖から継承した廣田新聞店の一番の遺産として、脈々と私達の心に生き続けております。

 

 

『柿の木台に眠る』

③花崖山房にて
廣田花崖は、昭和26年(1951)1月27日 病を得て、64歳でその生涯を閉じます。
その一年ほど前、自分の墓碑銘として次の詩を残しています。
生きて遺憾なくんば/死して亦遺憾なからむ
ときいたらば/よろこびつどひ/ねむらむやすらけく/
このとこしへの/きよきところに
気骨の文士、「座せる闘士」廣田花崖は、現在柿の木台の墓地に眠っています。 時代とともに、いつのまにか忘れられた花崖ですが、わが生涯に遺憾のなかった彼は 「それはそれでいいんだよ」と笑みを浮かべているような気がします。

 

 

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《新聞各紙の紹介記事》
◆『廣田花崖 業績に光』 神奈川新聞 1999年11月9日付
◆神奈川新聞 『明治末~昭和初期の新聞配売店の様子』 2000年2月1日付
◆廣田花崖没後50年を記念する会「ふれあい作品展」 2001年10月
◆神奈川新聞 『かながわ歴史ものがたり』 2010年7月3日付

《講演とシンポジウム》
◆『廣田花崖没後50年を記念する会』 山内地区センター 2001年11月

◆廣田花崖年表

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氏名、年令、住所、電話番号をご記入の上
hirotarian@b06.itscom.net まで。

 

 

 

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